TikTokで世界的にバズった戸川純。生理がテーマの歌を歌い「不思議ちゃん」と呼ばれたこれまでを振り返る!
1 フォーエバー ★ :2023/04/15(土) 19:34:32.60ID:cS1XBblg9
4/15(土) 18:01配信
fumufumu news
戸川純さん 写真/本人提供
1985年に発売された戸川純の『好き好き大好き』。《愛してるって言わなきゃ*》というフレーズが、令和の若者たちにも支持され、TikTokでは『好き好き大好き』を使った動画がバズっています。その勢いは国内にとどまらず、北欧や東南アジア諸国でもアップされ、まさに世代や国境を越え愛され続けています。
【写真】1984年当時、鮮烈な印象を残した羽の衣装
唯一無二の存在ともいえる戸川さんは、近年はバンド『ヤプーズ』を率いて精力的な音楽活動をしています。また、YouTube動画『戸川純の人生相談』では、視聴者からの悩み相談に応じる姿を配信し、新たなファン層も獲得。今回は、戸川さんにデビューまでの経緯や芸能活動についてお聞きしました。
子役のころ、最後と言われた大舞台で演技の虜になる
──戸川さんは、TOTOの『ウォシュレット』のCMをはじめ、『刑事ヨロシク』(1982年にTBS系で放送。脚本家の宮藤官九郎も影響を受けたというドラマ)でのおつや役や、数々のドラマ、映画、そしてミュージシャンとしての活動など、マルチに活躍されていた記憶があります。芸能活動のきっかけは何でしたか?
「小3のときに、劇団ひまわりに妹の京子(戸川京子さん)と所属したんです。京子は華があったんで、すぐ役がもらえたんです。私は当時地味だったから……(苦笑)、ずっとエキストラ。親から、私には才能がないと言われました。でもその直後、3階席まである大舞台のオーディションに受かったんです」
──どのようなオーディションだったのですか。
「新国劇の『王将』という舞台で、最終の3人に残りました。台詞は3〜4個だったかな。思いっきりデカい声で“お父ちゃんのアホ!”って言ったら受かったんです(笑)。(自分の出演がないときに)その舞台を3階席から見ていたら、辰巳柳太郎さんの演じている主人公が、ひなたぼっこしながら眠ってるんです。セリフが全くなくなって動かなくなって少しして、3階席からでもこの人は*だんだってわかるんですよ! その演技を見て、“芝居ってすごいや!”って、演技の虜(とりこ)になったんです」
──芸能活動はお芝居がスタートだったのですね。
「でも親に “学校がある”って芸能活動を反対されたんですよ。京子も芸能活動をやっていたんですけどね(笑)。でも彼女は才能があるから続けていいって親から言われていて。それで、こう考えたんです。“芸能界でテレビに出ている人って、才能がある人ばかりには見えない。だから諦めないで学業に専念して、大学に入ったら演劇をやろう”と。もうメラメラとその気持ちは燃えていましたね」
──学生時代も、演劇の勉強は続けていたのですか?
「学校の演劇部は練習が、ちょっとぬるいって感じていたし、門限が厳しかったし、よく早退していたんですよ。母親が女優になることを応援してくれていて、クラシックバレエやモダンバレエ、日舞も習っていました。ピラティスのV字バランスのポーズで、“あ、え、い、う、え、お、あ、お”って自主的に発声練習もしていたんですよ。おかげで声楽を習ったときも、“腹式呼吸はもうできてる”って言われました。あとは新劇の本を読んで、ジェスチャーみたいに独学で練習していました」
次ページは:大学に入学し、本格的な芸能活動をスタート。しかしエキストラばかり
https://news.yahoo.co.jp/articles/0ddb3c881573a01922deab58e936180cfa8ff636?page=1

(出典 fumu.ismcdn.jp)
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戸川純さん 写真/本人提供
1985年に発売された戸川純の『好き好き大好き』。《愛してるって言わなきゃ*》というフレーズが、令和の若者たちにも支持され、TikTokでは『好き好き大好き』を使った動画がバズっています。その勢いは国内にとどまらず、北欧や東南アジア諸国でもアップされ、まさに世代や国境を越え愛され続けています。
【写真】1984年当時、鮮烈な印象を残した羽の衣装
唯一無二の存在ともいえる戸川さんは、近年はバンド『ヤプーズ』を率いて精力的な音楽活動をしています。また、YouTube動画『戸川純の人生相談』では、視聴者からの悩み相談に応じる姿を配信し、新たなファン層も獲得。今回は、戸川さんにデビューまでの経緯や芸能活動についてお聞きしました。
子役のころ、最後と言われた大舞台で演技の虜になる
──戸川さんは、TOTOの『ウォシュレット』のCMをはじめ、『刑事ヨロシク』(1982年にTBS系で放送。脚本家の宮藤官九郎も影響を受けたというドラマ)でのおつや役や、数々のドラマ、映画、そしてミュージシャンとしての活動など、マルチに活躍されていた記憶があります。芸能活動のきっかけは何でしたか?
「小3のときに、劇団ひまわりに妹の京子(戸川京子さん)と所属したんです。京子は華があったんで、すぐ役がもらえたんです。私は当時地味だったから……(苦笑)、ずっとエキストラ。親から、私には才能がないと言われました。でもその直後、3階席まである大舞台のオーディションに受かったんです」
──どのようなオーディションだったのですか。
「新国劇の『王将』という舞台で、最終の3人に残りました。台詞は3〜4個だったかな。思いっきりデカい声で“お父ちゃんのアホ!”って言ったら受かったんです(笑)。(自分の出演がないときに)その舞台を3階席から見ていたら、辰巳柳太郎さんの演じている主人公が、ひなたぼっこしながら眠ってるんです。セリフが全くなくなって動かなくなって少しして、3階席からでもこの人は*だんだってわかるんですよ! その演技を見て、“芝居ってすごいや!”って、演技の虜(とりこ)になったんです」
──芸能活動はお芝居がスタートだったのですね。
「でも親に “学校がある”って芸能活動を反対されたんですよ。京子も芸能活動をやっていたんですけどね(笑)。でも彼女は才能があるから続けていいって親から言われていて。それで、こう考えたんです。“芸能界でテレビに出ている人って、才能がある人ばかりには見えない。だから諦めないで学業に専念して、大学に入ったら演劇をやろう”と。もうメラメラとその気持ちは燃えていましたね」
──学生時代も、演劇の勉強は続けていたのですか?
「学校の演劇部は練習が、ちょっとぬるいって感じていたし、門限が厳しかったし、よく早退していたんですよ。母親が女優になることを応援してくれていて、クラシックバレエやモダンバレエ、日舞も習っていました。ピラティスのV字バランスのポーズで、“あ、え、い、う、え、お、あ、お”って自主的に発声練習もしていたんですよ。おかげで声楽を習ったときも、“腹式呼吸はもうできてる”って言われました。あとは新劇の本を読んで、ジェスチャーみたいに独学で練習していました」
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